■今日の行程
さてバリ旅行も終盤だ。今日もバリバリ観光しまくろう!今日はまたレンタカーでDと観光だ。今日は少し遠いキンタマーニ高原へ。
それからデンパサール市場、タナロット寺院が今日の主な観光目的地だ。
■サラサを購入
まずはキンタマーニ高原へ向かって北へウブドの方向へと車を走らせる。このキンタマーニ高原はウブドよりもさらに北上する。途中でサロンやサラサを売っているお店によった。そこはD曰く、卸だから安くて外国人は少ない、全部地元の人だといっていた。確かに地元の買い物客が多いような気がした。いろんな柄があって迷ってしまう。自分用に前回買ったのとは違うタイプで柄も前とは違ったのがいいなぁ〜などと見ていると優柔不断な私はなかなか決められない。Dにお店があと5分くらいで閉店するからといわれて急いで1枚決めた。買ったサラサは私は手にとったときに50,000ルピアだと思っていたのだけどレジにいくと182,900ルピアと表示された。さっきから手にとったものは50,000とか70,000だったのに急に182,900ルピア?確かに値札にはそう表示もしてある。なぜだろう。店員さんが私の代わりに持っていてくれた間に高い値札をつけた同じ商品に取り替えた?そんな手の込んだことをするとは思えない。でも値札は簡単に取り外しができるタイプではない。わけがわからなかったけれどとりあえず支払いをした。値札を私がみまちがえたのか・・・、サラサにしては高すぎる・・・。どちらにしても買い物は急いでするべからず。
GALUH ART SHOP
TEGEHE BATUBULAN SUKAWATI GIANYAR
Tel:(0361)298304 Fax:(0361)299496
私が購入したのはSARUNG GURITA COCOAN
お昼なのにもう閉店というのは明日がバリのお祭りだかららしい。前日である今日はお昼まで営業して午後はみんな地元に帰るらしい。クタ地区に住んでいる人は大体ウブドとかキンタマーニとか山の方から出てきた人ばかりらしい。だからお祭りのある今日荷物をもって子供を乗せてバイク3人か4人乗りくらいで田舎に帰ると。私達と同じウブド方面にいく道中何台もそういうバイクの光景をみた。庶民の交通手段はバイク。しかも10代の子供も一人でバイクに乗っていたりするので驚く。どうみても子供だ。免許を取得できるような年齢じゃない。Dにきいてみると免許はやはり(何歳かは忘れたが)年齢が何歳以上というのがあるのだけれど、警察はうるさく言わないらしい。
■キンタマーニ高原へ
今日のDセレクトVGMはジャワ西部の伝統音楽だった。この音楽は他の人もすすめていたけれど日本人が気に入る音楽らしい。確かに癒し系の音楽。気に入ったのだけど曲によっては笛がすごく高いパートがあってそこだけはちょっとキンキンした。それがなかったらよかったのになぁ・・・。
ウブドまできた。昨日とおった道とは違う道でなんてことない細い道なのだけれどこの道沿いに沢山の高級ホテルがあるそうだ。前から思っていたけれどバリの道は意外としょぼい。アスファルト塗装はされているけれど広い道路というのが少ない。だから高級ホテルがある道だって1車線の細い道というのが多かったりする。
車を運転しながらDが色々話をしてくれた。Dのお兄さんが2人いるらしいけれど一人は奥さんが日本人だったらしい。でも病気で亡くなったそうだ。夫婦ともにダイビングのインストラクターだったらしく、あるとき奥さんが頭が痛いといっていたらしい。病院に行った方がいいよ、周りはいったそうだけれど大丈夫、といってかなり後まで行かなかったらしい。病気がわかってからすぐになくなってしまったらしい。こちらでお葬式と火葬(だとおもう)をしたらしい、日本に遺体を持って帰るのは高いからといっていた。今はお兄さんはダイビングのマスターの資格をとったらしい。それがあるとダイビングライセンスのサインができるらしい。Dにお兄さんは奥さんが亡くなってどうしているのかきいてみたけれど日本語がいまいち伝わっていなかったわからなかった。もう一人のお兄さんは空港の近くに暮らしているらしい。子供が女の子が一人(次の日会う、とってもかわいい!)そういえばDは私のいきなりの観光につきっきりで仕事は大丈夫なのか?と思うけれど、今固定した仕事はしていないらしい。お兄さんの仕事をたまに手伝っているといっていた。お母さんはいないみたいでお父さんがジャワ島のガラム?とかいうタバコの故郷で暮らしているらしい。だからDは一人でクタのナイトマーケット付近のアパートで暮らしている。Dはバリ育ちで、でも親はジャワ出身だからかバリの言葉とジャワの言葉ができるらしい。インドネシアではインドネシア語が共通語でバリでは普段はバリの言葉を話すけれどバリ島以外の人と話すときは共通語であるインドネシア語ではなすらしい。それは中国の普通語(北京語)と地方の言葉の関係によくにている。バリの学校ではインドネシア語で授業するらしい。わからないけれど多分テレビはインドネシア語が殆どなのじゃないだろうか。
■キンタマーニ高原に到着
キンタマーニ高原は想像した以上に絶景だった。山とふもとに見える湖と、行ったことないけれど阿蘇山に近いのだろうか。
湖の岸のこちら側には温泉があるらしい。そして向こう側にはバリの原住民が住んでいるそうだ。一見向こう側には続いているので陸路でいけるように思えるけれど崖で道がないのでボートで湖を渡るらしい。時間があったら是非行ってみたい。ちなみにボートはみたかんじ小さくてちゃっちいと思ったけれどちゃんとエンジンはついているそうだ。そして「行きはよいよい帰りはこわい♪」帰りのボートの値段は高いらしい。だって払わなければこちら側に帰る手段がないからどんな妨害な値段でも払うということなのだ。原住民の人はどんな感じだろうか。純粋な心でもてなしてくれるのか、それとも観光業を利用してずるがしこく生きようとしているのか。とてもきになるところだ。今バリにいる人たちはもともとはジャワ島からやってきた人たちだ。昔イスラム教とヒンズー教とで争って負けたヒンズー教徒がジャワ島から追い出されてバリにやってきた。だからジャワ島はイスラム教、バリ島はヒンズー教がほとんどだ。だけどジャワ島も広くて西に位置する首都のジャカルタまでいくより、ジャワ島の東に位置するバリにきた方が近いという人もいるのじゃないだろうかと思った。なぜならこの旅行中にDの知り合いでジャワ島の人にかなり会ったから。ジャワ島東部の人からみるとバリの方が近い。それにヒンズー教が殆どのバリでもイスラム教のモスクもある。そうやってバリ(クタ地区)に集まってきているのじゃないかと思った。
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↑キンタマーニ高原! |
↑湖の向こうが原住民の住む場所
湖はかなり大きい |
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↑湖の左岸には温泉施設があるらしい |
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キンタマーニ高原のビュースポットは2つあった。1つめは人はあまりいなくてゆっくりできる。物売りは地元の子供達(写真参照)こちらの子はしつこくない。ペンダント2万ルピーよといってきて、興味ないそぶりをすると1万ルピーでもいいよ、とかってに値下げしてくる。あまり切羽つまっている感じはしなかった。やっぱり観光地の物売りは実はそれほど貧しくないのだろう。D曰く彼女達はアルバイトらしい。ウブドの学校にいくお金ちょうだいといっていた子供達も学校には通っていて、下校してからのアルバイトとしてやっているらしい。それにしても彼女達綺麗な顔立ちだったので写真を沢山撮ってしまった。子供なのにはっきりした顔立ちで20代半ばの自分よりセクシーにみえる。なんだかむなしいね〜。
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↑物売りの女の子達 |
↑第二の停車スポット ここも車よりもバイクが多い
白い車の右が交通整備のおにいちゃん |
第二の停車スポットはおばちゃん&おばあちゃんの物売りが結構つきまとってきた。肩をちょちょっとつつかれて振り向いてみたら、「Tシャツ Tシャツ」「アクセサリー かわいい」と日本語でいってきた。しかもついてくる。せっかく綺麗な風景のところでゆっくりしたいのに、物売りにつきまとわれたら心やすまることないよ。屋台がでていてお腹がすいているのでチップスを買って食べた。近くに沢山立派なレストランがたっているけれどD曰くきわめて高いらしい。一度Dが日本からきたお客さんをつれてキンタマーニを案内したとき、お客さんがキンタマーニの頂上で昼食をとりたいといって「高いですよ」と教えてあげたけれど大丈夫だからと食事をすることになったらしい。3人で600,000ルピア。極高!日本円にして6,000円くらい。バリでこの値段はびっくりする。バリは物価が安いからと思っていたその人たちもびっくりして「Dちゃんごめんね」といったらしい。
■湖の方へおりてみる
高いところから湖をみてみると行きたくなってくる。そのまま車で湖の方までいってみることにした。途中一軒こじんまりとしたホテルがあった。ここにとまるのもいいかもしれない。高原なので暑くないし綺麗な景色のもとで湖で泳いだりするのも楽しいと思う。それから上から眺めて黒く見えた部分がみえてきた。大きな岩だ。火山噴火のあとのようだ。この火山は活火山だそうだ。その付近から砂を運んでいくトラックもいくつかすれ違った。トレッキングの標識もでていた。この辺りでトレッキングもできるようだ。
湖までの道は民家があったり、そとで青年が遊んでいたり、明日のお祭りの準備をしたりしていた。とても小さな町だ。すぐにキャベツ畑と湖がみえてきた。キャベツ畑が湖の辺にそってある。水をあげるのが楽だろうなぁと楽観的な想像をする。それから波止場もあった。小さい波止場。ここから向こう岸に行くのだろう。違う世界にいくようなわくわく感だ。きっと日本人だけでいったら思いっきりぼったくられるだろうなぁ。湖の水辺で遊んでいる人達の姿もあった。時間があったら遊びたい。
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↑これが火山灰のようだ |
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↑湖に隣接した野菜畑 |
↑奥の原住民の住む場所までは近いように見える |
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↑道沿いの民家 |
↑村の人がたむろっている
ここはさらにのんびりしてそうだ |
■果てを目指して
私達が走っている道は湖の渕を通っていて、湖の向こう側にいく陸路はないということはこの道路もどこかで行き止まりになっているはずだ。私はちょっとした「果て」フリークなので(日本でも岬が好き)道路がなくなっている場所=果てに興味津々だった。ただ運転している車が四駆で大きいのであまり細いところまではいかない方がいいとも思った。その判断はバリ人のDに任せよう。道路があって民家があるところまでは普通に進んでいって、途中民家がなくなってただの道になるところがあった。そこから先はまだ道路が続いているけれどおそらく先は行き止まりのようだ。まだ進んでいくか迷っていると、自転車にのった高校生くらいの男の子が一人向こうからやってきた。私達の車をとおりすぎてDが急に彼をよびとめた。自転車で結構スピード出していたのでかなり強引な呼び止め方だなぁと思ったけれど、まあ他に聞く人もいない。Dはバリの言葉で彼にこの先道があるのかきいているようだった。それでかなり強引に呼び止めてしまったからか、お金を1,000ルピア(だと思う)彼に渡していた。1,000ルピアだとしたらお小遣いほどの金額でしかないのだけれど、日本では人に道をきいてお金をあげることはないからちょっとショックをうけてしまった。確かにバリでもさっきのキンタマーニの第二のビュースポットで1,000ルピアを駐車整理の人に渡していたし、一昨日のチキンスープのお店の駐車場で車の誘導をする人にも1,000ルピア渡していた。中国だったら官僚的な人だったら道をきいて高級なタバコをすすめたりするだろうけど高校生に渡すかどうかあまりみたことがない。子供にお金をあげるのはお正月などの行事のときだけだろう。1,000ルピア、日本円でいったら10円くらいなのだけど、それが何枚かあればジュースが飲めるし、それだった大切なお金にかわりはないんだ。ショックをうけていないフリしてたけれどちょっと心はショックだった。そして車で引き返してさっきの自転車の高校生を追い越すとき、高校生の彼は満面のさわやかな笑顔をDに送り、Dはクラクションでそれに答えた。多分高校生にとってはちょっとしたうれしいことで、Dにとったらちょっとした気持ちでそれも日常の一部なのだろうけれど、私はその高校生の笑顔が今でも忘れられない。
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↑この道をすすんだ |
↑引き返す寸前の湖のほとり |
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↑ここで引き返した |
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■クタ方面へ
キンタマーニ高原の観光を終えてクタ方面へ戻ることにした。お昼を大分すぎていたのでお腹もすいているけれどキンタマーニでの食事は高いし、Dがデンパサールにおいしいナシチャンプルのお店があるからとそこにいくことにした。デンパサールまで1時間半はかかる。車の中では朝からかかっているジャワ島の伝統音楽とDの口笛が・・・、うっ、頭が痛い。といいながらも昨日遅くまでU子と話していたので眠たくて眠ってしまった。そして気がついたらもうデンパサールの付近だった。ウブドの段々畑テガラランを通ったときも眠りこけていたらしい。なんでおこしてくれなかったの〜?というとおこしたら怒るかもしれないから怖かったと。ひぃ、あたっているかもね。起こされても怒らないという保証はできないわ。でもテガララン、もしかして昨日みたいのは本当のテガラランじゃなかったのかもしれないという疑惑を確かめるためにもみたかったのになぁ。
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↑売っているお供え |
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↑お花 |
↑食品の市場の向かいのお寺 |
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↑間の川、とても浅い |
↑この川の橋を渡る人 |
■遅い昼食ナシチャンプル
それからDおすすめのナシチャンプルのお店に行った。家族経営のかなりローカルなお店だった。またまたアボガドのジュースを頼んだらここは生ビールのジョッキにたっぷりと注がれてでてきてびっくりした。ふつうアボガドジュースではアボガド一つ使うそうだけど、ここは2つ使っているとDがいっていた。ナシチャンプルは最初にご飯をいれてもらって、具は全部並べてあるのでその上に自分の好きなおかずを言ってのっけてもらう。鶏肉と野菜を2種類くらいのけてもらった。他に何をのせてもらおうかなと迷っていると、よそってくれているお店の人がDに一言なんかいって一つお肉のお皿をしたからだしてきた。牛肉らしい。おばちゃんはDに私の宗教をきいたんじゃないかと思う。ヒンズー教なら牛肉は食べないし。だから最初は下に隠しておいてあったのだとおもう。私は今までの食事でヒンズー教のバリでもともと牛肉料理が少なくて、さらにイスラム教で豚肉を食べないDと行動して、鶏肉ばかりを食べてきた。思えば初の牛肉かもしれない。もちろん牛肉もよそってもらった。そこのナシチャンプルは思ったよりスパイシーだった。アボガドジュースの甘さが引き立つ。っていうか少し甘すぎかも。アボガドジュースに、若いココナッツと甘いものをとりすぎたのでこれより後はシュガーレスのお茶を好むようになった。なんでも適量が大切だね。
お店の中ではお店のおばちゃんの娘がお父さんと遊んでいる。お店はあまり綺麗じゃないけれどその子は裸足であそんでいるので足が真っ黒になっているよ。でもそんなのんびりと時が過ぎていっているような生活がうらやましく思った。私はいつも時間がない時間がないって何かに終われて、できなかったことに対して一人でいきり立っている。ゆとりがほしいって思うけれど、仕事をゆっくりする人やトロトロと歩く人をみると腹が立ったりする。子供と一緒にゆっくりと遊べるそんな余裕をもった生活がいつかできるだろうか。
■タナロット寺院へ
夕暮れ時のタナロットが綺麗だということで間に合うように私達はタナロットへ向かった。駐車場に車をとめてタナロットの寺院まで歩くのだけどその間お店が沢山ならんでいてときたま中国語がかいてあったりしてびっくりした。殆どが台湾人らしいけれど中国語を理解する旅行客もいるのだろう(Dにきくと大陸と香港の人は殆どこないらしい)。
タナロット寺院は満潮のときは岩場の部分が海の下に隠れて寺院が離れ孤島のようになる。私が言った夕方は引潮だったので孤島にはなっていなくて回りの岩場は全部歩いて回ることができた。キンタマーニ高原にはあんまり観光客がいなかったけれどここには沢山の観光客がいる。やはりクタエリアから近いからだろうか・・・。タナロット寺院から夕日をみるのに綺麗な場所は3つくらいあるそうだ。
3つともいってみたかったけれど2つ目をみていたら日没が近づいてきたのでそこで日が暮れるのをみることにした。
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↑タナロットの入り口 |
↑入り口にある石碑
プレジデントの名前がかいてある |
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↑下から近くから見上げる。干潮だからできる。 |
↑左の寺院を離れて眺める。
満潮の時はこの寺院が孤島になる |
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↑海のすぐ側までいける |
↑寺院とは反対側のほう |
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↑綺麗な夕暮れが見えた |
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■クタに戻る
すっかり暗くなってしまった。夜の海というのは慣れなくて怖い。海のそばにすんでいたら慣れるのだろうか。
明日はバリを離れる日なので今日は最後の夜ということになる。Dに何をしたい?ときかれたけれど何も思いつかないのでとりあえずクタまで戻ってナイトマーケットでカキ氷を食べることにした。カキ氷はもう日課のようになってしまった。アボガドジュースのように飽きる日が来るのだろうけれど今のところまだまだ大丈夫。おもしろい筋肉むきむきのソニーがオーナーのロマノでカキ氷を食べた。お昼を食べたのが遅かったからまだあんまりお腹がすいていなかったので、野菜スープだけ頼んだ。飲みものは砂糖なしのアイスティー。ティーボトルというコカコーラの瓶に似ているお茶があるのだけれどそれは砂糖が入っているのでアイスティーをつくってもらった。
そういえばここナイトマーケットにはたくさんの子供がいて女の子達がみんな集まっていつも遊んでいる。その中にバリ人なのに私に似ている子がいる。そして私の妹に似ている子供もいる。この二人は従姉妹同士らしい。妹に似ている子のお母さんは元モデルで今でも綺麗な人だ。ナイトマーケットで働いていて旦那さんは香港人。だから東アジアの顔をしている。その元モデルのお母さんの姉妹が私に似ている子のお母さんらしい。たぶん同じくナイトマーケットで働いているようなことをいっていた。そうだ、その元モデルのお店で今アルバイトをしているバリボーイが実は前回会った人だったのだ。Dのお友達でDとその人が一緒にいたところ私達は知り合って買い物とかつきあってくれたのだった。Dは私達のことを覚えているから彼も覚えているものだと思っていたけれど話しかけたら完璧に忘れられていて驚いた。前回結構いろんな話をしたように記憶しているけれど、そのときだけの友情で終わってしまったのか・・・。一年半前に私と妹とバリにきていてクタのマーケットとか一緒にいったじゃないと言ったんだけど覚えていないようだった。その子は日本語がDよりもかなり流暢なのだけどぼそぼそしゃべるのでよく聞こえなかった。それにいい人いないから紹介してくださいとか言われて自分のことだけしか考えてないんかいと思った。まあ毎日沢山あらわれては消える日本人の旅行客。長期滞在でもしない限りは忘れられてしまうのかもしれないね。そしたらソニーも独身だという話になって驚いた。ソニーはなんで独身かというと宗教がエホバらしくてこのヒンズー教以外が少数派であるバリで同じエホバの人を見つけるのがすごく難しいそうだ。バリに教会はあるみたいだけどエホバの人がいるとは驚きだ。そしてひょうきんなソニーちゃん、結婚相手を見つけるのが難しいというのはとてもかわいそうだった。いい人みつかるといいなぁ。
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↑ロマノの店主ソニーちゃん。
怖そうにしているけれどテーブルを
丁寧に拭いているところ。 |
↑バリ人&東京の女の子カップル。
これから彼の田舎(ジャワ島の東)にバイクでいくそう。
彼女の靴とズボンの裾が個性的 |
■クタビーチ&バリ旅行の感想
クタに滞在していたのだけど実はクタのビーチは一度もいっていなかった。行ってみると実は今まで何度も通った道路のすぐそばだと気づく。灯台下暗しとでもいうのかな。昼間は物売りを含めて人が沢山いるビーチだけど夜は人がまばらだ。ビーチで座ってボーっとした。空港に離着陸する飛行機がみえる。明日は私もあそこから出発して天津にもどるんだなぁ。日本語のあんまり流暢でないDと朝から晩までつきっきりで案内いしてもらうのに疲れて早く帰りたいとか思ったりもしたけれど、明日帰るとまだここにいたいという気もしないでもない。「5日間の滞在は短すぎるよ。今度は1ヶ月くらい長くきてね」とDに言われて「うん」」とは返事したものの、そんなに長い休みがあるわけもないし、マリンスポーツをしないのであれば長期の滞在ですることがすぐ無くなってしまうということが容易に想像できる。バリはやっぱり小さい町だとおもう。いや、バリ島は大きいけれど私達外国人観光客が見て回るエリアは限られている。マリンスポーツしたり、トレッキングやラフティングしたり、自然とたわむれたり、のんびりしたりするのなら相応しい場所かもしれない。でも観光とか見たことのないものを求めてでかける旅行者にとっては2度も3度もバリに訪れるのは退屈かもしれない。今回2度目のバリを体験して強く思った。0回の滞在と1回の滞在は雲泥の差があるけれど、1度の滞在と2度の滞在は0回と1回との差ほどの差がない。本当に気に入った街でないと短期間の間に2度目の滞在を実行しない方がよいと思った。もちろん2度目の滞在で1回の滞在ではわからなかったことがみえてきてより深い理解が得られるのは確かだ。今回その方面では収穫は沢山あった。バリ人の生活、宗教、バリで生活する外国人の生活等、「ああ〜バリってのんびりできていいね〜」だけで終わらないくらいの理解は深まった。同じく海外で働くU子と将来の話をすることによって自分のことも見つめなおす機会にもなったし。同じ海外で働くことにしても天津とバリではかなり違うなぁと思った。バリには日系企業が数えるほどしかいないから日本人駐在員というのも少ないし、それよりもサーファーだとかで学生或いはフリーターをして長期在住している人が多い。それとバリ人と結婚してバリで生活している日本人女性も驚くほど多い。あとは何もしないでふらふらとしている人も多いのも事実。そういうふらふら系の人たちというのは天津には少ないのでそういう意味では天津は働く環境は悪くないかもしれない。コストダウンのために駐在員より現地採用を利用しようとしたり、現地採用を利用しているところではもっと安く厳しい条件で雇おうとしたりしているけれど、それでも中国語を習得したい!とか中国で働きたい!とか目的意識をもって働いている人が多いと思う。ふとU子の隣に住んでいる2人の日本人の話を思い出した。1人は26歳の女性で1年前くらいにバリにきてそれからずっと何もしていないらしい。一度ホテルの仕事に誘われて「U子にどう思いますか?」ときいてきたらしい。U子が「ホテルも沢山あって色々な条件の所があるから他の所とか見てみてもいいんじゃないですか」といったら「そうよね、いつでもできるわよね、やっぱりやめた」とホテルは断ったらしい。もう一人はもう少し若く23歳くらいらしいけれどこちらも何をしているのかわからなくて最近ワルン(レストラン)を開いたとかなんとか。それは自分で起業することが費用が高くて難しい日本では「バイタリティーあってすごいねー」と思うことなのかもしれないけれど、物価の安い国ではそうでもない。特に日本語を話すバリ人がこんなに多いバリでまとまったお金があったら起業やビジネスは比較的簡単にはじめられる。老後の生活として或いはサイドビジネスとしてそういう事業を営むのはよいけれど23歳くらいで自分のビジネス一本の生活になってしまうのは私には不安が多い選択だと思える。例えば数年たって日本の社会に戻りたいと思ったとき容易に戻れるのだろうか。日本の会社はバリ滞在の経験を評価してくれるのだろうか。レストラン経営は将来のビジョンの中で重要な意味をもっていればもちろんそれはよいと思うけど、そうじゃなくてなんとなく、だらだら、のんびりしてみたという生活の人が多いバリだからこそ、そういうテンポが当たり前になってしまうのは怖いことだと思った。これは天津で長期滞在したから思うのだけど、海外で暮らしたことが無い人にとっては海外暮らしはすごいことに思える。例えば留学の経験がない人は留学したらだれでも言語がぺらぺらになると勘違いするようなものと似ている。もちろん海外暮らしは一筋縄ではいかないし、トラブルもありでいろんな意味で成長する機会の多いすごいことなのかもしれない。だけど天津に長く暮らしている人にとっては天津での生活は日常だし、それ=すばらしい とはならない。どこにいようといつも目的意識をもってすごすことが大切なんじゃないのだろうか。いる場所じゃなくてそこで何をしているか、毎日考えてがんばっているかってことが注目されるべきだと思う。のんびりした環境に感覚が麻痺してしまって、そこでだらだらとしてしまうそんな危険のぷんぷん感じられたバリだった。
■美食!ミーアヤム(鶏ラーメン)
Dがお腹がすいたそうなのでお弁当を買うといってクタマーケット付近の道端で売っているお弁当を買った。お弁当というのはごはんに数種のおかずをのせて紙でくるんであるもの。普通のお弁当は10,000ルピアだけれどDが買ったのは5,000ルピアでおいしくなかったといっていた。それからMIE AYAMという麺を食べるか?ときかれた。すぐ近く、ちょうどクタマーケットの前くらいに麺の屋台があるのだ。麺は一台のカートで作るだけなのだけどとてもおいしい。簡易椅子やゴザがでていて人が沢山きている。日本人の姿は見えなかったけれどお店のお兄ちゃんが日本語を「すいません」とか話せたから日本人のお客さんもくるのだろう。となりにはお弁当を売っている出店もあった。そこは繁盛している。きっとおいしいのだろう。タクシーが一台とまって上下真っ白なファッションで肌の色は東アジアの人で髪の毛は真っ赤とか黄色とかに染めている若者がでてきた。げげげ日本人じゃないよねと思ったが、ジャカルタの華僑のようだ。ハードロックカフェでバンドをしているらしい。今休憩時間なのか麺を食べにきたというわけだ。
ミーアヤムは見くびっていたけれどかなりの美味だった。Dにおいしいというお店沢山つれていってもらったけれど、ここが一番いいかもしれない。この麺が日本人の味にあうんだよね〜。もしかして私が天津に長い間暮らしていて日本の麺にうえているからそんなに感動するのかもしれないけれど、でもスープもおいしかったぞ。小さいおわんでね、夜食にぴったり。とってもおすすめの麺だ。
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↑この小さな車でミーアヤムはつくられる |
麺に感動しながらもこの感動を私に自然な言語表現で伝えられる相手がいなくて一人なんともいえず黙っていた。おいしかったとはいったけれど、やっぱりずっと外国語として日本語を話している人と会話すると「話したくない病」にかかってしまう。もちろんあからさまに話をしなくなったりはしないけれどなんとも口数がすくなくなる。Dはそんなことは知らないからミーアヤムを食べに来ていた回りのバリの人とおしゃべりを楽しんだりしている。Dはいつもどこでも誰かとおしゃべりができるようだ。人当たりのいい人なのだろう。それとも道端で知らない人と話するのは普通なのだろうか。私は誰とも話すこともできずにいろいろ回想した。天津での生活のこと、仕事のこと、これからのこと、バリでくらす日本人のこと。私はDみたいにいつも笑顔でにこにこ、そばにいる人とおしゃべりを楽しもうとかってできないわ〜と思った。Dのようにできる人がうらやましいと思う半面、私の思考はもっと複雑なのよって思ってみたり、そしてその自分の心の汚さに嫌になって、かといって純朴に戻れないその心の葛藤に段々つかれてきてホテルに帰りたくなってきたのでかえって寝る事にした。Dは今日はバリ最後の夜なんだから朝まで遊ぼうとかいったけれどそんな元気ない。明日も帰るっていっても夜中の飛行機だから朝からまた観光する時間はある。それに今回はテロもあって盛り場にあまり行きたくないから結局行く所も限られているんだよね。今日も早く寝て明日最後一日を楽しもう。