私と中国語

中国語をはじめたきっかけは高校生のときにテレビで中国のニュース番組をみた。ニュースキャスターが話す中国語をきいて、あのはっきりと話すようにきこえる中国語を自分も勉強したいと思ったことからだった。もともと英語が好きだったので大学に入ったら第一外国語を英語にして、第二で中国語を専攻しようときめた。
 入学後第二外国語の授業は週1くらいしかなかったけど、夏休みを利用した短期留学があったので、2年生になったときにそれに参加するという目標をたて自分なりにラジオやテレビの中国語講座を視聴して勉強した。
 2年生の夏。1ヶ月北京へ短期留学した。留学先は中国の最高学府北京大学。海外旅行は以前シンガポールにいったことがあったけれどそのときは中国語に興味がなかったので中国語関連の記憶はなかった。留学という意味では初めての体験だった。1ヶ月は何もかもが真新しく刺激的な時間だった。1ヶ月という時間では思ったほど外国語が上達しないということをそのとき知った。
 日本に帰り3年後半から4年夏まで1年間の交換留学としてもう一度北京に行きたいと思った。交換留学生になるのはお金を支払ったら参加できる短期留学とは違って中国語検定3級に合格しなければならない。試験勉強に励んだ。同時にうちの大学に中国から留学にきている人に話しかけてお友達になった。まだまだ中国語が話せるというレベルじゃないけれど、彼らと接していると中国語もきけるし何か中国語でわからないことがあったら質問できるし勉強になった。その頃はじめて「相互学習」というシステムを知る。私が日本語を教えてあげて、相手が中国語を私に教えてくれるというもの。私の相互学習の初めての相手は北京大学から留学してきていた朱さんだった。江西省の出身で北京大学哲学科大学院の学生の彼女はとても聡明でやさしいお姉さんだった。中国語の他にもいろんな中国の話もきかせてくれて彼女達と一緒にいるのはとても楽しかった。
 中国語検定3級に無事合格。同時にHSKの5級も取得した。そして私ともう一人の女の子の2人が北京大学への交換留学生に選ばれた。今回の留学は交換留学なので北京大学で単位をとってこなければならない。中国語で中国の最高学府の専門授業をうけて試験に合格して単位をもらわなければならないのである。これは相当のレベルの中国語が必要とされる。北京へ旅立つ前に中国語の語学学校でダブルスクールもした。週に2回通った。その学校は日本人のレベルが高くて中国に行ったことがない人でも中国語がかなりしゃべれたりする。先生も生徒も優秀なところだった。そのレベルに一生懸命ついていこうと私もがんばった。
 交換留学生として北京へ再度旅立つ。1度目の時とは違って中国語は大分わかるようになった。だけどわからない単語は相変わらず沢山あるし、自分の話したいことも単語や言い回しが思いつかない。こんなので単位取得できるのだろうかと思った。最初の半年は外国人が中国語を専門に勉強するところ(漢語中心)で中国語を勉強した。そこで半年間中国語を集中して勉強して後期は専門の授業で単位をとれるようになろうと思ったのだ。漢語中心には日本人も多くて、自分と同じようにうまく中国語がしゃべれない人たちが沢山いて心理的にこころ強かった。北京大学は大きな大学だから日本人も2000人いる。日本語を話す機会が多いのも確かだ。とはいっても漢語中心での授業プラス中国人のお友達との交流などで半年くらいしたらある程度ききとりもできるし、意思疎通ができるようになってきた。
 後期は漢語中心をはなれて専門の授業をうけた。専門は哲学系(哲学科)での授業だ。授業を選ぶ際にあまり専門的なものではなくて、理解しやすそうなのを選んだ。中国仏教史と応用倫理学、心理学などをうけた。どの先生もなまりがひどい。有名大学の先生は地方から出てきた人が多い。中国語を母国語としない私達にとっては、なまりというのはくせものだった。もちろん話している内容が高度だということの方が大きな原因ではあるのだけど。授業ではノートをとるのも大変で、先生の言わんとする内容を理解するのは大変だった。なんとなくはわかるのだけど細かいところまでは理解できない。そのなんとなくを自分なりにああでもないこうでもないと思考して何とか自分のものにする。その連続で試験を受けた。試験はもちろん難しくてうまく回答できなかった。中国各地からやってきた優秀な生徒と対等に回答することはできないので、留学生だということを加味してもらうしかない。私は交換留学生で、北京大学で過ごす1年は休学しなくても日本で授業をうけているのと同じ扱いになる。休学しないで4年で卒業できるのだからラッキーといえばラッキーである。がしかしその分私は卒業に必要な単位を北京大学で取得してそれを日本の単位に交換してもらわなければならない。それが中国仏教史と応用倫理学の2つの科目でその単位を絶対に落としてはいけなかった。それがとれてやっと私は卒業できる単位を満たすことができる。なぜ中国に来る前に単位を全部取得しておかなかったのか?いう質問をされそうだけど、それは私の所属している学科のコースがそうなっていて、大学3年時の後半で必ず取得しなければならない科目があったのだ。それは3年生の前半では開講していないというよりは、それは1年で連続している科目であって、3年の前期で前半部分を所得して、後期で後半部分を取得するというシステムだったのだ。だから私は3年生の後期にかならずその科目相当の単位数が必要だったのだ。
 では中国仏教史と応用倫理学の試験の結果はどうだったのだろう。結果から言わせてもらうと私は無事卒業することができた。北京で取得した単位を無事日本で卒業に必要な単位に認定してもらって、日本に帰国後卒論を書いて卒業した。が私が北京で取得した単位は本当は2科目分ではなかった。試験の結果は自分でとりにいかなければならなかった。日本と違って自分でそのスケジュールを把握していないと誰かが親切に教えてくれたり郵送してくれたりはしない。私は人に尋ねて結果がわかる人を待っていたのだけど勘違いをしていたようで、気がついたときにはその受け取りの日を過ぎてしまっていた。どうしようかーと躓いたとき、いつも頼りにしていていたのが、北京大学で私達留学生の受け入れの仕事をしている張先生のところへいった。張先生は北京大学でも顔が結構たつ。以前は教鞭を握って授業もうけもっていたそうなのだけど今は授業はしていない。だけどいつも急がしそうに飛び回っている。あの張先生は私達の面倒もみてくれていたのでそこにいって試験結果のことをいったら、先生が直接もらってきてくれるといった。「もうしわけない」って思ったけれどもうそうするしか私には方法がわからなかった。海外でのやり方はとてもサバイバルで日本人の私にはどうしてよいのかわからないことが結構あった。数日後張先生のところへ再度いった。試験の結果をきいてきてくれたのだけど、一つ落ちていたそうだ。中国仏教史がだめだったそうだ。私は卒業できなくなるのかと思った。じゃ、これからどうしたらいいんだろうと考えた。でも張先生がすぐ、だめだったけれど先生にいって合格にしてもらったからね、といった。たぶん彼もそんなことはしたくはなかっただろうけれど、交換留学生がどうしても必要な単位を落としてしまったんじゃ、日本の大学でも問題になる。やさしい張先生よ、ありがとう。私はそんなわけで無事単位取得して卒業するための単位を満たすことができた。
 1年間の留学が終わるころ、私は北京から離れたくなかった。大変だけど中国語もだんだんと伸びてきているし、こちらの生活にもなれてきた。これから勉強できる体制になってきたというところなのにかえらなければならないなんて悲しいと思った。でも卒業して中国関係の仕事についてまた北京の地を踏みいれよう、それを目標にして日本に帰ることにした。確かに私は卒論を書いて卒業をしなければならなかった。日本に帰って私のするべきことをやらなければ私の留学は終わったといえない。
 日本に帰ってからは就職活動と卒論であっという間に時間はすぎた。就職活動は中国関係で探したけれど帰国したのが4年生の8月だったので就職活動は殆ど終了しかけていた。いや、まだまだ求人はあったのだけど、自己分析とかを長い時間かけてやってきてもいなかったので自己アピールもうまくできないし、とにかく就職活動本番までの準備段階が省略されていたのだ。本番ぶっつけみたいなところがあるし、残っている求人はだんだんと少なくなってきてあせるものだった。そんな中ひとまず内定を2社いただいたのが10月の末だった。一社は日本にある超小規模な商社と、もう一つが今勤めているこの会社だ。どちらの会社にするのか、考えたり決めたりすることは沢山あってけれど、とりあえず今から12月の卒論提出日までは卒論に集中することにした。何しろ卒論の準備は少しもしていなかったのだ。担当の教授に中国にいるときから卒論の指導をお願いしますとメールをしたのだけれど、その教授から「留学はめったに得られる機会じゃないのだから留学中は留学に集中しましょう。卒論はかえってきてからでも間に合う」といわれてまったく準備をしていなかったのだ。もちろんそういってくれた教授には感謝している。留学中は中国語の勉強や留学先でしかできないことに集中したいものだ。それで私は日本に帰国後就職活動もひとまず落ち着いた11月まで何もしてこなかった。11月になって初めて担当教授のところへ行って卒論の話らしきものをした。「これから大変だよ」とか言われるかと思ったけれど意外にもすぐに終わった。2年生のときに少し書いたものを使ってあと2章くらい付け足してやりましょう、ということになった。以前書いたものを使うとなるとなんとなくせこい気がするかもしれないけれど、もとはというとその2年生のときに受けた授業(その担当教授がうけもっていた)で各々与えられた部分を調べさせられて、すごく難しい作業だったけれどそのおかげで卒論にはそのテーマで書こうと決めたのだった。だから以前書いた文章を使うことは理にかなっているのだった。
 卒論の締め切りは確か12月の20日前後だったと記憶している。それまでは学校のある研究室を使わせてもらって執筆した。執筆としても資料を写してばっかりだったけど。その研究室に卒論締め切りもせまってきてある女性が現れた。彼女は1,2年生のときとった中国語の授業にでていた女の子だった。話をしたことはなかったけれど彼女の卒論のテーマは中国茶だったらしい。今から書き始めるようで間に合うのか〜などと思ったけれど、担当の先生は中国語もとてもうまくてきぱきとした教授だったのできっと大丈夫かなと思った。私の担当の教授はとても論理的な先生だった。けれどいつまでに何をして提出するように、というやり方をとらないので、本当に自分で考えて作成しなければならない。
確か一度か二度、できたところまでメールで送ってくださいといわれたので送ったけれど特に直されたりしなかったような気がする。単に私が覚えていないだけかもしれないが、具体的にこの文章を直しなさい、などという指導はなかった。出来上がって卒論に対する質問、というのが担当教授と、もう一人の教授が出席してなされるのだが、なぜか担当教授の都合で日時が決定されてそのためにもう一人の先生というのがいなかった。私と二人だったのだ。が他に誰も人がいないからといって私の担当教授は適当に質問したりすることもないし、質問すべきところはきちんと質問した。なんといっても私の書いたテーマはその教授の専門でもあったのだ。彼からみてみると私の急ピッチで書いた稚拙な論文は随筆みたいなものに思えるかもしれないが、先生は順序良く質問していった。最後に私の論文を一部簡易製本して提供して終わった。
 卒論も無事とおり卒業となった。ぎりぎりまで私は就職先を迷っていた。天津の会社にするのか超小規模商社にするのか。超小規模商社は台湾の会社と貿易をしているので中国語は使える。韓国語ができる人はすでにいたけれど英語があまりできないそうなので英語も期待されていて仕事的には私はやりがいのある仕事を与えてもらえるような感触はあった。だが問題は超小規模だということだ。本社が地方にあるのだけれど従業員数が12名。東京支所として2名いるだけだ。私が入って3名。会社の規模にこだわりはあまりないけれど、少し小さすぎるようなきがしてそれが気になっていた。かわって天津の今の会社は現地採用なのだけど当時は現地採用がどういうものなのかよくわかっていなかったから、中国で働けるし生活費の安い中国で暮らす分には給料が少なくても大丈夫よねーと思った。第一もとの会社が大手メーカーだったからそれが安心だったのだ。会社がつぶれることはないし、なにより本社12名の会社と比べるとかなり力強かった。ということで私は天津に来ることにした。留学から帰るときは「必ず北京にもどってくる!」と強く思っていたのでそれだけが少し不満だったけれど。
 そんなこんなで私は天津で仕事をし始めた。初めはあまりなれなかった。生活も北京と天津の違いもあるし、留学と仕事という違いもある。中国にきたのに思うほど楽しめていないという感じもした。今はもう天津4年目、ある程度楽しんでいるのかと思う。

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